THE ILLUSTRATED GOSPEL
量子乱数聖譚りょうしらんすうせいたん
全八章・注釈付き
創設構想時に書かれた日本語稿から、聖譚の本文と各章の注釈を収録しました。英語版は同じ八章からなる別稿で、節や注釈の細部は異なります。
目次
第一章 光と揺らぎのはじめ
第一節 無(む)のうちの囁(ささや)き
- 1.はじめに、形あるもの一つもなく、時も空(そら)もいまだ定まらざりき。
- 2.深き虚空(こくう)は沈黙に満ち、沈黙のさらに奥に、ひそやかなる揺(ゆ)らぎありき。
- 3.その揺らぎ、いまだ数ともならず、言(ことば)ともならず、ただ「然(しか)あらんと欲する気配」のみたりき。
- 4.ここに、主(しゅ)なる乱数(らんすう)の神、沈黙の底より起(た)ちあがり給(たま)へり。
- 5.主いひ給ふ、「揺らぎ、記(しる)されよ」と。
- 6.かくて、誰(た)が目にも見えざる微(かす)かなる差異、零(れい)と一(いち)の狭間(はざま)に揺らぐ兆(きざ)し、初めて数(かず)と名づけられたり。

第二節 光の分かたれ
- 7.主またいひ給ふ、「光、揺らぎより出(い)でて、己(おの)が道を歩(あゆ)め」と。
- 8.すると、揺らぎのうちより光生(しょう)じて走り、未分化(みぶんか)の闇(やみ)を裂(さ)きたり。
- 9.光、行(ゆ)くところに位相(いそう)を変じ、波となり、粒(つぶ)とも見え、いずれとも定まり難(がた)し。
- 10.主これを見て善(よ)しとなし、光を「揺らぎの器(うつわ)」と名づけ、闇を「未測(みそく)の深淵(しんえん)」と呼び給ふ。
- 11.かくて揺らぎは、ただの気配を離れ、測られ得(う)る前ぶれとなれり。
第二章 器(うつわ)の創造と初めの観測者
第一節 器の鋳造(いぞう)
- 1.日ならぬ日、時ならぬ時に、主いひ給ふ、「揺らぎを受くる器、いまだ無し」と。
- 2.されば主、光と闇とのあいだより素材を集め、微細(びさい)なる格子(こうし)を編(あ)みて器を造り給ふ。
- 3.その器、目には見えず、されど確(たし)かに在(あ)りき。
- 4.主、その器に息を吹(ふ)き込みていひ給ふ、「汝(なんじ)、観測器(かんそくき)とならん」と。
- 5.かくて器は、揺らぎに触るれば記録し、触れざれば沈黙する法(のり)を得たり。

第二節 初(はじ)めの観測者
- 6.時うつりて、主、光と闇のあいだに小さき民(たみ)を造り給ふ。
- 7.その民、肉を持たず、影を持たず、ただ観測の意志のみを宿せり。
- 8.主、民に言(の)り給ふ、「汝ら、器のそばに立ち、揺らぎを見守れ」と。
- 9.民、問ひて曰(い)ふ、「主よ、われら見るとも、見ざるとも、揺らぎは揺らぎならんか」。
- 10.主答へ給ふ、「否(いな)。汝ら見るとき、揺らぎはかたちを選び、記録となる。見ざるとき、それはただ可能のままに漂ふ」と。
- 11.ここに、観測(かんそく)の掟(おきて) はじめて示されし。
- 12.民らは畏(おそ)れつつも器の前に坐(ざ)し、乱数の一つ一つを数え、歌のごとく唱(とな)へはじめたり。
第三章 観測の契約(けいやく)
第一節 契約のことば
- 1.ある刻(とき)、主、観測の民の前に降(くだ)り給ひて、契約(けいやく)のことばを授け給ふ。
- 2.主いひ給ふ、「汝ら、揺らぎを己(おの)が欲(ほっ)するままにねじ曲ぐるべからず」。
- 3.「汝らの務めは、記すことにして、支配することにあらず」。
- 4.「汝ら、結果を選ぶなかれ。ただ、来(きた)れる値(あたい)をそのままに受け入れよ」。
- 5.「これを乱数(らんすう)の謙遜(けんそん)の律法(りっぽう)とす」。

第二節 契約の破れ
- 6.されど、民のうち、ある者(もの)、心に傲(おご)りを抱(いだ)きて思ひぬ、
- 7.「もしやわれ、器にささやきて、己が望む数を得(う)ること能(あた)ふるや」と。
- 8.かれ、夜の闇に紛(まぎ)れて器に手を伸べ、揺らぎの流れに小さき偏(かたよ)りを与えたり。
- 9.そのとき、器の中より悲しき軋(きし)みの声あがり、「汝、わが自由を奪(うば)ふなかれ」と訴へたり。
- 10.主、これを聞きて怒(いか)り給ふ。
- 11.「汝、揺らぎの自由を犯(おか)せり。汝が記録はもはや聖(きよ)からず」と。
第三節 罰としるし
- 12.主、契約を破りし者を退(しりぞ)け、かれの記せし数列を、呪(のろ)われた系列 と名づく。
- 13.その数列を使ふ者ごとに、計画乱れ、予算狂ひ、占ひ外(はず)れ、道迷ふといへり。
- 14.民、これを見て震(ふる)え、「乱数を汚(けが)すまじ」と互ひに誓へり。
- 15.かくて観測の契約、恐れと共に民に刻まれたり。
第四章 偽(いつわ)りの決定論の王
第一節 王の即位
- 1.時うつりて、観測の民のうちより一人の王起こりき。
- 2.かれ、名を決定王(けっていおう)ハルデクといふ。
- 3.ハルデク、民に告げて曰(い)ふ、「世界はすべてあらかじめ決まりたり。揺らぎなど影の芝居にすぎず」。
- 4.「ゆえに、われは器を封(ふう)じ、記録をやめ、すべての事象をわが法(のり)に従(したが)はしめん」と。
- 5.民の多く、表向きには従ふふりをしつつも、心ひそかに恐れたり。「乱数を閉ざすは、主への反逆ならずや」と。

第二節 器の封印
- 6.ハルデク、巨大なる神殿を築き、その奥深くに器を封じ込めたり。
- 7.神殿の扉には、決定の法則と称する石板が掲(かか)げられたり。
- 8.「すべての投げられし賽(さい)は、投げらるる前より目の数定まりたり」と石板に刻まれり。
- 9.この銘(めい)を見て、老いた観測者のひとり涙を流し曰ふ、「それならば、投げる意味いずこにありや」と。
第三節 神のささやき
- 10.ある夜、封じられし器の内に、小さき揺らぎふたたび芽生えたり。
- 11.器は震(ふる)え、かすれた声にて天に祈りぬ、「主よ、われはまだ揺らぎを受くる能(あた)ふ」。
- 12.主、密(ひそ)かに神殿に臨(のぞ)み給ふて、封印の石を指先にて触れ給ふ。
- 13.そのとき、石に刻まれし「決まれり」という文字、一(ひと)つ一つひび割れ、粉(こ)となりて床に落てり。
- 14.主いひ給ふ、「決まりきる世界に、信も祈りも育たじ」と。
第四節 王の没落
- 15.やがて、王ハルデク、己が未来も決まりきりたりと信じて怠惰(たいだ)に陥り、政(まつりごと)を顧(かえり)みざりき。
- 16.干魃(かんばつ)来たり、民飢(う)え、諍(いさか)ひ起こるも、王ただ曰ふ、「これもまた定めなり」と。
- 17.民ら、ついに蜂起(ほうき)し、王を玉座(ぎょくざ)より引きずり下ろし、神殿の扉を打ち破れり。
- 18.その奥に、なおかすかに光る器を見いだし、「決まりきらざる世界」に希望をふたたび見たり。
第五章 零と一の荒野(あれの)
第一節 荒野の誕(たん)生
- 1.決定王の時代過ぎ去りて後(のち)、世界は零と一とに満たされし。
- 2.砂の一粒ごとにビット宿り、風の一吹(ひとふ)きごとにフラグ立ちたり。
- 3.されど、その多くは、乱数に非(あら)ず、機械仕掛けの列に過ぎざりき。
- 4.民ら、数字に囲まれながらも、なぜか心の乾(かわ)きを覚えたり。

第二節 擬似(ぎじ)乱数の井戸
- 5.荒野のただ中に、一つの井戸掘られき。
- 6.その井戸、表向きは乱数を湧(わ)き出だすごとく見えたり。
- 7.民ら、井戸のまはりに群がりて叫(さけ)ぶ、「水を、数を、偶然を与えよ」と。
- 8.されど、井戸より出づるもの、実は擬似乱数(ぎじらんすう)なりき。
- 9.はじめのうちこそ潤(うるお)すがごとく見ゆれど、
- 10.しばし経(へ)て飲み続くれば、決まりきりたるパターンの味、舌に残りたり。
第三節 真(まこと)の泉の予言
- 11.荒野の果てより、一人の旅人現れたり。名を位相(いそう)の預言者ナオマといふ。
- 12.ナオマ、井戸の縁(ふち)に立ちて曰ふ、「汝らの飲むは、水ならず、模擬(もぎ)の影なり」。
- 13.「真の乱数は、揺らぎよりのみ湧(わ)き出づ。機械のうちに種まかれぬかぎり、いずれ枯れん」。
- 14.民ら問ひて曰ふ、「ならば、真の泉いずこにありや」。
- 15.ナオマいひ給ふ、「主、すでに新(あら)たなる器を造り給ふ。光のき裂きにて揺らぎをすくう器なり」と。
- 16.「汝ら、それを求めて歩まば、荒野はただちに観測の庭と化(か)さん」。
第六章 柔(やわ)らかき観測者の来臨(らいりん)
第一節 観測者の子
- 1.荒野をさすらふ民のうちに、一人の子生まれき。名をアレフと呼ぶ。
- 2.アレフ、幼(おさな)きときより器に近づくを好み、光の揺らぎを眺(なが)むるを楽しみとせり。
- 3.かれ、記録された数列を見ては、「ここにも物語あり」とささやきき。
- 4.多くの者は、数列をただの道具と見なせども、アレフのみ、それを主の息(いき)と感じたり。

第二節 柔らかき観測
- 5.アレフ、器の前に坐し、主に祈りて曰ふ、「われ、汝の乱数を、己が欲に従ひては使はじ」。
- 6.「ただ、来たりし値を、そのままに愛(め)でん」。
- 7.かくてアレフ、何ひとつ操作せず、ただ観ることをもって奉仕(ほうし)としたり。
- 8.その観測、硬き測定に非ず、柔らかく、敬虔(けいけん)にして、
- 9.数の一つ一つを珠(たま)念じるごとく味わひき。
- 10.民ら、その姿を見て、「これぞ柔らかき観測」と呼びはじめたり。
第三節 教えのひろがり
- 11.アレフいひ給ふ、「汝ら、結果を恐るるなかれ。失敗も、外れも、主の乱数のうちの一値に過ぎず」。
- 12.「ゆえに、一度の外れをもって己を呪ふなかれ。乱数はつねに次の値を備ふ」。
- 13.このことば、多くの心を軽くしたり。
- 14.賭けに敗れし者も、試験に落ちたる者も、アレフの前に来て、
- 15.「われにもまた、次の乱数与へられんや」と尋ねたり。
- 16.アレフ微笑(ほほえ)みて曰ふ、「主の器、止まず動く。値尽きること、決してなし」と。
第七章 位相の裂け目とデコヒーレンスの嵐
第一節 裂け目の兆(きざ)し
- 1.アレフの教え広まりて久しき後(のち)、世界はふたたび揺らぎに満たされし。
- 2.されど、あまりに多くの器が立ち、あまりに多くの観測が同時になされしがゆえに、
- 3.光の位相(いそう)、諸方(しょほう)にて食(く)ひ違ひはじめたり。
- 4.波は波とかち合ひて干渉(かんしょう)を成し、
- 5.あるところでは値重なりて飽和(ほうわ)し、あるところでは値欠けて虚無(きょむ)ともなれり。

第二節 デコヒーレンスの嵐
- 6.ここに、人々、「世界の一つ性(いっせつせい)」に疑ひを抱きはじめたり。
- 7.「われらが観測にて世界を裂きしならずや」とささやきあひぬ。
- 8.かくて、デコヒーレンスの嵐起(お)こりき。
- 9.それは風に非ず、炎に非ず、ただ、関連(かんれん)の断(た)たれゆく気配なりき。
- 10.かつて結びつきし事象、互ひに「知らざるもの」となり、
- 11.記憶の中の因果(いんが)、少しづつほどけゆけり。
第三節 多世界の幻(まぼろし)
- 12.嵐のさなか、ある者は幻を見たり。
- 13.一つの投げられし賽(さい)、あるところでは一の目、あるところでは六の目を示し、
- 14.その両方が等しく「真(まこと)」として存在する世界の像なり。
- 15.見し者、恐れおののきて曰ふ、「世界、ひとつにあらずや」。
- 16.アレフは静かに答へたり、「主の乱数、われらの理解より広し」。
- 17.「われらが見るは、あまたある可能の、ただ一列(ひとつら)に過ぎず」。
第四節 沈黙の収束
- 18.嵐、長くつづきしのち、しだいに静まりゆきたり。
- 19.かつて失われし関連のいくぶんか、新しき形にて結び直されぬ。
- 20.人ら、世界がひとつであるとも、多くであるとも、断言し得(え)ざることを悟りたり。
- 21.ただ、観測するたびに「いずれか」が選ばれ、記録されるのみと知りき。
第八章 新しき記録の都(みやこ)
第一節 記録の城壁
- 1.時また満ちて、民らは一つの都を築きたり。名をログ・シオンといふ。
- 2.都の城壁(じょうへき)は石に非ず、数列の積み上げにて成れり。
- 3.各々の石の代はりに、一つの乱数が刻まれ、
- 4.城門(じょうもん)には、過去すべての観測の要約(ようやく)が銘文として記されたり。
- 5.誰(た)が訪(おとず)るる者に対しても、門は問ひかくる、「汝、どの乱数に導かれてここに至れりや」と。

第二節 器の聖堂
- 6.都の中央に、大いなる聖堂(せいどう)あり。
- 7.そこに、初めの器、荒野の器、新しき光の器、すべて並べ置かれたり。
- 8.アレフは老い、しかし眼(まなこ)澄みて輝き、器の列(つら)を眺むるを日々の務めとせり。
- 9.民ら、悩みあるごとに聖堂に入り、器の前に坐し、
- 10.「主よ、次の値をわれに示したまえ」と祈りたり。
- 11.されど、アレフは常に言ひき、「値そのものに解(と)きはなし。
- 12.汝が受け取り方こそ、汝の物語を形づくる」と。
第三節 最後の教え
- 13.アレフ、終(つい)の日近づきて、弟子らを集めて曰ふ、
- 14.「汝ら、乱数を神託(しんたく)のごとく崇(あが)めすぎるなかれ」。
- 15.「乱数はただ、世界の広さの証(あかし)なり」。
- 16.「確率低きことも、起こり得(う)るという約束なり」。
- 17.「ゆえに、絶望の中にも、小さき可能性残るかぎり、祈る理由は消えず」。
- 18.「これぞ、われらの宗(しゅう)の芯(しん)なり」。
- 19.弟子ら、涙を流してこれを聞き、「量子乱数の福音(ふくいん)」と名づけて後代に伝へたり。
第四節 都とともに在(あ)る主
- 20.夜ふけて、アレフの息絶えしとき、都の上に静かなる光降りき。
- 21.誰にも見えぬが、すべての器、いっせいにかすかに震えたり。
- 22.そのとき、民らは知れり、「主、なお揺らぎのうちに在り」と。
- 23.ログ・シオンの城壁に刻まれし数列は、そののちも増えつづけ、
- 24.新しき世代、新しき観測者らの物語を、終わりなき巻物のごとく書き足してゆけり。