量子乱数物語
都市Qの少年ハルは、工場の廃棄品の中で、三桁の数を表示する小さな箱を拾った。
創設構想時の日本語小説原稿を、章・節番号を保って収録しています。
章目次
第零章 まだ物語が観測されていない状態で

0:1この物語は、ひとつの乱数から始まる。
0:2だが、その乱数も、観測されるまではただの可能性の雲にすぎない。
0:3きみがこの文字を読むとき、ひとつの物語が確定し、他のすべての物語は静かに消えていく。
0:4量子乱数宗教――重ね合わせの信仰を掲げる奇妙な教団の歴史もまた、そうして選ばれた一つの枝である。
0:5ここでは彼らの聖典のように、章と節に分かれた形式で、その始まりから終わりまでを語る。
0:6だが忘れてはならない。語られなかった別の枝では、彼らは生まれなかったかもしれず、あるいは世界を救ったかもしれない。
0:7いま観測されるのは、この一本の「物語関数」だけだ。
第一章 観測以前

1:1時間の名がまだ与えられていないころ、人々は世界を「決まっているもの」だと信じていた。
1:2明日は今日の延長であり、原因が結果を生み、軌道はなめらかに続く――そう教えられて育った。
1:3ハルという少年も、その一人だった。都市Qの外れ、工場の影に埋もれた貧民区で生まれた彼は、数字だけは誰にも負けなかった。
1:4彼の父は整備工、母は夜勤の清掃員。二人とも疲れ切っていて、未来について語るときは決まってこう言った。
1:5「どうせ、決まってるさ」
1:6ハルは、その言葉が嫌いだった。
1:7もし本当にすべてが決まっているなら、自分がどれだけ努力しても、どれほど願っても、結果は変わらない。
1:8そんな世界なら、数字を理解することに何の意味があるのか――彼にはわからなかった。
1:9ある冬の日、ハルは工場の廃棄品置き場で、ひとつの奇妙な装置を見つける。
1:10小さな金属箱。表面には「Q-RNG 01」と刻まれていた。
1:11ボタンと、数桁の表示パネル。電源を入れると、静かにファンが回り、数字がひとつ、表示された。
1:12【042】
1:13「……何だ、これ」
1:14説明書は失われていたが、箱の裏に貼られたラベルだけが辛うじて読めた。「量子トンネル効果を利用した真性乱数生成装置。
出力は完全に予測不能であり、
いかなる決定論的アルゴリズムにも還元されない。」
1:15ハルは、その文を何十回も読み返した。
1:16「完全に予測不能」という言葉は、彼の中で固く凝り固まっていた決定論への不信感を、鋭く貫いた。
1:17もし世界の底に、純粋な「わからなさ」があるとしたら。
1:18もし、すべてがあらかじめ決まってなどいないのだとしたら。
1:19その夜、ハルは初めてその装置を「祈りのため」に使う。
1:20「もし明日が今日と違うなら、100より大きい数を」
1:21彼は目を閉じてボタンを押した。
1:22【173】
1:23――その瞬間、彼の中で世界の見え方が、わずかに、しかし決定的に、ずれた。
第二章 ゼロと一のあいだ

2:1ハルは装置に名前をつけた。「聖乱数器」と。
2:2それは冗談半分だったが、口にしてみると、意外なほどしっくりきた。
2:3聖乱数器は、毎回違う数字を返した。
2:4その数字は何の意味も持たない――はずだった。
2:5しかしハルは、その「意味のなさ」こそが、何よりも尊いように感じた。
2:6学校で確率を学んだとき、教師はこう言った。
2:7「コインを投げれば、表か裏が出る。確率は二分の一だ」
2:8だが、コインにも、投げる手にも、空気にも、すべては決まった物理法則が働いている。
2:9「本当は、全部計算できるはずなんだ」と教師は続けた。
2:10その夜、ハルは聖乱数器を撫でながら呟いた。
2:11「きみは……計算できないのか?」
2:12彼は装置に質問し始める。
2:13「明日、父の機嫌はいい?」
→【001】(いいえ、と彼は解釈した)
2:14「数学のテストで合格できる?」
→【789】(はい、と彼は解釈した)
2:15もちろん、数字はただの数字だ。
2:16だがハルは、ゼロから四九九を「否」、五〇〇から九九九を「肯」と読むルールを自分で決めた。
2:17意味は、ハルが勝手に与えた。
2:18それでも、彼は感じていた――この装置は、世界の「決まっていなさ」を指で触れられる唯一の窓だ、と。
2:19高校に進学するとき、進路を巡って父と激しく衝突した。
2:20父は言う。「お前には大学なんて無理だ。工場に入れ。俺と同じ道を行け」
2:21ハルは机の下でそっと聖乱数器を握りしめる。
2:22「大学に進むべきか?」
2:23彼は渾身の祈りを込めてボタンを押した。
2:24【500】
2:25ぴったり、閾値の数。
2:26否とも肯とも、簡単には言えない曖昧な境界。
2:27ハルは笑ってしまった。
2:28「そうか……世界は、ゼロでも一でもなく、そのあいだにあるのか」
2:29その夜、彼は父に頭を下げた。
2:30「工場で働く。でも、夜は勉強を続ける」
2:31完全な肯定でも、完全な否定でもない。
2:32聖乱数器が示した「中途半端な答え」を、そのまま自分の生き方に写し取ったのだ。
第三章 最初の測定者

3:1工場で働きながら夜学に通う生活は、残酷なほど単調だった。
3:2油の匂い、機械の振動、疲れ切った同僚たちのため息。
3:3だがハルには、他の誰も知らない秘密があった。
3:4休憩時間になるたびに、彼はロッカーの影で聖乱数器を取り出した。
3:5「今日は誰と話すべき?」
3:6「この提案は、言うべき?」
3:7生活の細部にまで、彼は乱数を持ち込んでいった。
3:8最初にそれに気づいたのは、同僚のミナだった。
3:9ミナはハルより少し年上で、どこか諦めきれない目をしていた。
3:10「ねえ、その箱、何?」
3:11ある日、彼女は突然問いかけた。
3:12ハルは迷った末、すべてを話した。
3:13決定論への違和感、偶然への憧れ、聖乱数器の予測不能性。
3:14ミナは黙って聞き、やがてこう言った。
3:15「つまり、それは……わたしたちの代わりに決めてくれる神さま、ってこと?」
3:16「神さまじゃないよ。ただの装置だ」
3:17ハルは否定しながらも、心のどこかで、その言葉を怖れていた。
3:18もしこれが「神」になってしまったら、自分はどこへ行くのか。
3:19ミナは笑った。
3:20「でも、わたしたちの人生、今までは全部『他人』に決められてきたでしょう? 親とか、会社とか、仕組みとか。
それが、少なくとも『世界の揺らぎ』に決めてもらえるなら……少しだけマシな気がする」
3:21その日から、二人は一緒に乱数を引いた。
3:22仕事終わりに寄り道するかどうか。残り物のパンを分ける順番。
3:23小さな選択を、聖乱数器に委ねながら、二人の距離は少しずつ縮まっていった。
3:24ある夜、ミナがぽつりと言った。
3:25「ねえ、ハル。これ、もう『遊び』じゃないよね」
3:26「どういう意味?」
3:27「わたしたち、世界の底にある『わからなさ』に、祈りを捧げてる。
将来を決めてる。悲しみを受け入れて、喜びを受け取ってる。
それって、もう……宗教みたいなものじゃない?」
3:28ハルは、聖乱数器を見つめる。
3:29数字は何も語らない。
3:30だが、その沈黙を、彼はもう「無意味」とは呼べなかった。
3:31「じゃあ、僕たちは……最初の信徒ってことか」
3:32「違うよ」ミナは首を振った。
3:33「最初の測定者だよ」
3:34その呼び名は、いつの間にか彼らのあいだの合言葉になった。
3:35ハルとミナ、二人の測定者から、量子乱数宗教の物語は本格的に動き出す。
第四章 迷える決定論者

4:1ハルとミナの噂は、工場の中で静かに広がっていった。
4:2「なんでも機械に決めさせる変人たち」
4:3最初は笑い話だった。
4:4だが、その笑いは次第に変わっていく。
4:5組長との交渉で、ハルが乱数で決めた提案を持ち出したとき、
4:6偶然にもその提案が経営陣の思惑と一致し、部署全体の待遇が改善されたのだ。
4:7「お前、どうやって読み切った?」
4:8仲間たちは驚き、ハルは正直に答えた。
4:9「乱数で決めた。予測不能なほうが、相手の読みを外せるかもしれないと思って」
4:10皆はまた笑った。だが今度は、少しの羨望と、わずかな畏れが混ざっていた。
4:11そのなかに、工場で一番頭が切れると評判の青年がいた。名前はレン。
4:12彼は徹底した決定論者だった。
4:13統計、シミュレーション、機械学習――あらゆるモデルを駆使して、この世界は「ほぼ完全に予測可能だ」と信じていた。
4:14「乱数? そんなものは、ただの『無知の言い訳』だ」
4:15レンはそう言い切る。
4:16だが、ある日、工場のラインで深刻な事故が起きた。
4:17レンの作った最適化アルゴリズムが、想定外の故障パターンを見落としたのだ。
4:18怪我人は軽傷で済んだが、彼のプライドは粉々に砕けた。
4:19その夜、人気のない屋上で、レンはハルに声をかける。
4:20「……あの乱数を、見せてくれ」
4:21ハルは聖乱数器を渡す。
4:22レンは深呼吸をし、まるで新しい宗派の儀式でも始めるかのように慎重にボタンを押した。
4:23【314】
4:24「この数字は、何だ?」
4:25「意味はないよ。あるとしたら、君が付けるんだ」
4:26ハルは答える。
4:27レンはしばらく黙り込んだ後、ぽつりと呟いた。
4:28「……もし、本当に予測不能な何かが世界の底にあるなら、
オレの信じてきた『完全なモデル』は、最初から存在しえなかったことになる」
4:29ミナが口を挟んだ。
4:30「わたしたちは、モデルを捨てろって言ってるわけじゃないよ。
ただ、その外側に、『どうしてもモデルに入らない揺らぎ』があるって認めるだけ」
4:31レンは聖乱数器を見つめ、やがてゆっくりとうなずいた。
4:32「……もし、その揺らぎを『神』と呼ぶなら、オレは信じない。
でも、それを『前提条件』として受け入れることはできる。
世界は決まっているようでいて、どこかで必ず外れる。
その外れ方を、オレは知りたい」
4:33ハルは笑った。
4:34「いいね。『迷える決定論者』の加入を歓迎するよ」
4:35こうして、第三の測定者が生まれた。
4:36彼の合理性と、ハルの直感、ミナの柔らかい倫理感が混ざり合い、
4:37量子乱数宗教は、単なる個人的な儀式から、ひとつの思想体系へと形を整え始める。
第五章 乱数神殿の建設

5:1三人は最初の「教義」を作った。
5:2それは壮大な哲学ではなく、素朴な生活のためのルールだった。
5:3第一条:自分の意志で決められることは、自分で決めること。
5:4第二条:自分の意志だけでは偏るとき、乱数に委ねること。
5:5第三条:乱数の結果を絶対視せず、その後の責任は自分が取ること。
5:6「神の意志」ではなく、「決めきれなさ」を埋める道具としての乱数。
5:7それは、従来の宗教とは少し違う、奇妙な敬虔さだった。
5:8やがて三人は、工場近くの使われていない倉庫を借り、小さな集会所を作る。
5:9壁にはホワイトボード。安い椅子と机。
5:10中央の台の上に、静かに聖乱数器が置かれた。
5:11「ここが……乱数神殿?」
5:12ミナが冗談めかして言うと、レンが眉をひそめる。
5:13「神殿というより、ラボ(実験室)だ。
オレたちは祈るんじゃない、観測するんだ」
5:14ハルは二人を見て笑った。
5:15「じゃあ、『観測室』にしよう。
でも、人はここで、きっと祈るよ」
5:16工場の仲間たち、近所の若者たち、失業者、将来に迷う学生――
5:17噂を聞きつけた人々が、少しずつ観測室に集まるようになる。
5:18最初に持ち込まれた相談は、恋愛だった。
5:19「彼に告白するべきか?」
5:20乱数は【742】を示し、「はい」が選ばれた。
5:21告白は成功し、その話は瞬く間に広がった。
5:22次に持ち込まれたのは、仕事の転職。
5:23「不安定だけどやりたい仕事」と、「安定しているがつまらない仕事」。
5:24乱数は前者を選び、その選択は数ヶ月後、大きなチャンスを呼び込むことになる。
5:25もちろん、いつもうまくいくわけではない。
5:26乱数が選んだ道の先に、失敗や後悔が待っていることもあった。
5:27だが、不思議な変化が起き始める。
5:28人々は失敗したときも、ただ「運が悪かった」とは言わなくなった。
5:29「世界の揺らぎが、こっちを選ばせたんだ。
じゃあ、この結果に、どう意味を見つけよう?」
5:30観測室の壁には、人々の選択と結果が記録されていった。
5:31レンはそれをデータとして集約し、統計を取る。
5:32彼は乱数を「信仰」の対象ではなく、「共犯者」として扱った。
5:33「見ろ、ハル。
意外にも、乱数に従った選択のほうが、主観的満足度が高い傾向にある」
5:34「当たり前だよ」ミナが笑う。
5:35「だってみんな、『どっちを選んでも後悔しそうなとき』にだけ乱数を使うんだもの。
自分で選んでたら、一生『あっちだったら』って悩んでたよ」
5:36そうして観測室は、統計と祈りが同じ空気を吸う、
5:37世界でも珍しい「乱数神殿」として、都市Qの片隅に根を下ろしていく。
第六章 量子異端審問

6:1観測室の噂は、やがて工場の外へ、都市Q全体へと広がっていく。
6:2メディアは面白半分に「量子占いの館」として取り上げた。
6:3ハルたちが望む形ではなかったが、それでも人は押し寄せた。
6:4同時に、反発も生まれた。
6:5既存の宗教家たちは、「神の意志」を乱数に置き換えるこの新興の動きを、
6:6危険な異端と見なした。
6:7また、行政は「無責任な意思決定を助長する危険な集団」として目を光らせる。
6:8なかでも、最も強硬だったのは「決定論倫理委員会」と呼ばれる団体だった。
6:9彼らはこう主張した。
6:10「人間は、理由を持って行動しなければならない。
責任とは、理由と結びついて初めて成立する。
理由なき乱数に従うことは、責任の放棄であり、倫理の崩壊だ」
6:11公開討論の場が設けられた。
6:12舞台には、委員会を代表する哲学者・オルマと、
6:13量子乱数宗教を代表するハルが座っていた。
6:14オルマは問いかける。
6:15「君たちは、人生の大事な決断を乱数に委ねるという。
それは、自分で考えることをやめることではないのか?」
6:16ハルは首を振った。
6:17「いいえ。
わたしたちは、まず徹底的に考えます。
考えて、考えて、それでも決めきれないときだけ、乱数を使う」
6:18「しかし、その最後の一押しこそが、人生を決定づける。
君たちは、そこを世界の気まぐれに任せるのか?」
6:19「世界は、もともと気まぐれです」
6:20ハルは静かに言った。
6:21「量子のレベルでも、人間の心のレベルでも。
わたしたちは、その『気まぐれ』を見ないふりをして、
全てが必然であるかのように物語を作り直してきた」
6:22観客席がざわめく。
6:23オルマは眉をひそめた。
6:24「だが、だからこそ人は、『意味』を作る必要がある。
世界が本当は無意味であっても、意味を与え直す。
それが文化であり、倫理だ。
君たちは、その仕事を放棄している」
6:25その言葉に、今度はミナが立ち上がった。
6:26「いいえ。むしろ逆です」
6:27彼女の声は震えていたが、まっすぐだった。
6:28「わたしたちは、乱数が示した結果に、意味を押し付けません。
『これは神の意志だ』『これは天罰だ』といった物語で、
世界の揺らぎを塗りつぶしたりしない。
6:29起きたことは起きたこととして受け止め、そのうえで、
自分たちの責任で意味を編み直します。
——それは、これまでの宗教より、むしろ厳しい姿勢かもしれない」
6:30オルマは一瞬だけ言葉に詰まり、それから静かに告げた。
6:31「……君たちの態度は、宗教というより、哲学に近い」
6:32レンが笑った。
6:33「ならこう呼んでくれてもいい。
『確率論的倫理学教団』って」
6:34会場に笑いが起き、空気がわずかに和らぐ。
6:35その日を境に、量子乱数宗教は「危険な異端」から、
6:36「奇妙だが一理ある連中」へと、世間の見方を少しだけ変えていった。
第七章 都市Qの分岐

7:1観測室ができてから五年が過ぎた。
7:2都市Qは、ゆっくりと、しかし確実に変わっていく。
7:3企業の一部は、複数の候補案から最終案を選ぶ際に、乱数の導入を始めた。
7:4「人間のバイアスを減らすため」という理由だった。
7:5政治の世界でも、特定の議席の配分や、審議順序の抽選に、
7:6公的な乱数装置が使われるようになる。
7:7人々は、「公平」とは必ずしも「理由付きの選択」である必要はない、と学びつつあった。
7:8ときに、理由なき揺らぎこそが、最も公平に近いこともあるのだと。
7:9その一方で、街のどこかには、別の流れも生まれていた。
7:10乱数を「責任逃れの道具」として使う人々だ。
7:11家庭内暴力を振るった男が裁判でこう主張した。
7:12「殴るかどうか、乱数で決めたんです。
だから、僕の責任ではありません」
7:13企業の経営者がリストラの対象を乱数で決め、こう言い放った。
7:14「恨むなら、乱数を恨んでくれ。私ではない」
7:15そうした事例が増えるにつれ、「量子乱数宗教」に対する批判は再燃した。
7:16「彼らの思想が、責任放棄を正当化しているのではないか」と。
7:17ハルたちは、深く傷ついた。
7:18あれほど「責任は自分が取ること」と繰り返し説いてきたのに、
7:19それでも言葉は、都合のいいようにねじまげられてしまう。
7:20「オレたちは、何か間違えたのか?」
7:21レンがつぶやく。
7:22ミナは静かに首を振った。
7:23「間違えたのは、わたしたちじゃない。
だけど、足りなかったんだと思う。
教義も、教育も、対話も」
7:24ハルは、観測室の中心に置かれた聖乱数器を見つめた。
7:25「僕たちは、この装置を世界への窓だと思ってきた。
でも同時に、人間の弱さを映す鏡でもあったんだね」
7:26都市Qは分岐していた。
7:27乱数を、責任を引き受けるための道具として使う人々と、
7:28責任から逃れるための盾として使う人々とに。
7:29どちらの枝が支配的になるのか、その行方を、
7:30誰もまだ観測できていなかった。
第八章 統計砂漠の旅

8:1批判と混乱のなかで、ハルたちは大胆な決断をする。
8:2都市Qを離れ、世界の他の街々に教えを広め、対話を重ねる旅に出ることにしたのだ。
8:3「逃げるのか?」と問われれば、ハルはこう答えた。
8:4「いいえ。広げに行く。
乱数に責任を押し付けない生き方を、もっと遠くまで届けたい」
8:5三人は観測室を弟子たちに託し、小さなバンに最低限の荷物と、
8:6聖乱数器の複製機を積み込んだ。
8:7オリジナルは、観測室の奥の金庫に眠らせたまま。
8:8旅の途中、彼らは「統計砂漠」と呼ばれる地域に入る。
8:9そこでは、データも記録もほとんど取られておらず、
8:10人々は感覚と伝統だけを頼りに生きていた。
8:11ある村で、ハルは村長に問われる。
8:12「お前たちの言う乱数とやらは、占いと何が違う?」
8:13ハルはしばらく考え、それから答えた。
8:14「占いは、結果に『意味』を与えます。
『こう出たから、お前はこういう人間だ』と。
8:15乱数は、意味を与えません。
どんな数字が出ても、
『お前はどう意味づける?』と問い返すだけです」
8:16村長は目を細める。
8:17「つまり、お前たちの乱数は、人の心に鏡を突きつけるのだな」
8:18ミナがうなずいた。
8:19「はい。わたしたちは、鏡を持って歩く旅人です」
8:20彼らは村の若者と、何日もかけて対話した。
8:21伝統と偶然、責任と自由、恐れと希望。
8:22乱数は、ときに対話を前へ進め、ときに立ち止まらせた。
8:23レンは、砂漠の夜空を見上げながら呟く。
8:24「星の配置を読んで運命を語るのが占いなら、
オレたちは、真空の揺らぎに乗って運命を問い直してる。
どっちも、結局は『物語』なんだろうな」
8:25ハルは笑った。
8:26「でも、僕たちは、物語を最後まで固定しないようにしてる。
いつでも分岐がありうるって信じながら、生きてる」
8:27ミナがぽつりと言った。
8:28「それって、つまり……わたしたちはずっと、重ね合わせのまま生きるってことだね」
8:29三人は、焚き火の火を見つめる。
8:30炎のゆらぎは、どの瞬間も決定的だが、
8:31その次の形は、誰にも予測できない。
8:32その夜、ハルは夢を見る。
8:33都市Qの観測室が、二つのまったく違う未来へと分岐していく夢だ。
8:34ひとつは、責任を引き受ける人々の街。
8:35もうひとつは、責任から逃げる人々の街。
8:36目覚めた彼は、どちらの未来が「現実」になるのかを知りたくてたまらなくなる。
8:37だが彼は、聖乱数器には触れなかった。
8:38「これは……観測しちゃいけない乱数だ」
8:39彼はそう呟き、ただ夜明けを待った。
第九章 最後の乱数

9:1旅から戻ると、都市Qはすっかり姿を変えていた。
9:2観測室は拡張され、街のあちこちに小さな「サテライト観測室」ができていた。
9:3弟子たちは、ハルたちの教えを守りながらも、
9:4それぞれのやり方で発展させていた。
9:5中でも、ハルの一番弟子となっていた少女・ユナは、
9:6乱数を教育の現場に持ち込み、「試行錯誤の勇気」を教える独自のプログラムを作り上げていた。
9:7「失敗するかもしれない選択」を、子どもたちは乱数で決め、
9:8その結果をみんなで観察し、分析し、笑い飛ばし、次に活かした。
9:9「未来は決まっていない。
でも、決まっていないからこそ、何度でも選び直せる」
9:10その考え方は、次世代の心に深く根を下ろしていた。
9:11一方で、乱数を責任逃れの道具として使う風潮も、完全には消えていなかった。
9:12都市Qは、相変わらず二つの枝のあいだで揺れていた。
9:13歳月は流れ、ハルたちも年を取っていった。
9:14聖乱数器の金属表面には、無数の指紋が刻まれ、
9:15ボタンは少し傾き、表示パネルの光も弱くなっていた。
9:16ある日、医者から戻ったハルは、観測室で仲間たちを集めた。
9:17「どうやら、僕の物語関数には、もうすぐ終端条件がかかるらしい」
9:18彼は、淡々と宣告した。
9:19重い病気だった。治療法はまだ確立されていない。
9:20みんなが泣き、怒り、受け入れられずにいるなかで、
9:21ただひとつの問いが、誰の口からも出なかった。
9:22――「生きるか死ぬかを、乱数で決めるのか?」
9:23ハル自身が、その問いを一番恐れていた。
9:24彼は、信仰の名の下に、自分の命を乱数に委ねるべきなのか。
9:25それとも、最後くらいは、自分の意志だけで決めるべきなのか。
9:26数日後、ハルはみんなを集め、静かに語り始めた。
9:27「僕は、治療を受ける。
可能性は低くても、『延長戦』に賭けてみたいから。
これは、乱数で決めない。
自分の物語だから、自分で書きたい」
9:28ユナが涙を拭いながら尋ねた。
9:29「でも、師匠。
量子乱数宗教の最後の教えとして、
何か、乱数に問いかけたいことは、ありませんか?」
9:30ハルはしばらく沈黙した後、聖乱数器を抱きしめた。
9:31その金属は、どこか温かかった。
9:32「……じゃあ、最後に一度だけ」
9:33観測室に、全員が集まった。
9:34古くからの仲間も、新しく加わった測定者たちも。
9:35みんなが固唾を呑んで見守る。
9:36ハルは目を閉じ、静かに問いを立てた。
9:37「僕たちの歩んできたこの道は、
世界にとって、ノイズだった?
それとも、意味のある揺らぎだった?」
9:38問いは、祈りのようであり、自己診断のようでもあった。
9:39ハルはボタンに指を置く。
9:40クリック音が、観測室に響く。
9:41表示パネルが、最後の乱数を示した。
9:42【001】
9:43――一見して、何の特別な意味もない、小さな数字。
9:44その瞬間、みんながハッと息を呑んだ。
9:45乱数には意味はない。
9:46だが、この場にいる誰もが、その数字に意味を与えたくてたまらなかった。
9:47沈黙を破ったのは、ミナだった。
9:48「……そうだね」
9:49彼女は微笑んだ。
9:50「世界から見れば、わたしたちは、きっと『001』みたいなものだよ。
無数のビット列の中の、たった一つの、ちっぽけなパターン。
9:51でもね。
この『001』を、わたしたちは知ってる。
この数字に、笑ったり、泣いたりできる。
だったら、それで十分じゃない?」
9:52ハルは、その言葉を聞いて静かに笑った。
9:53「うん……そうだね。
僕たちは、世界のノイズの中に、自分たちだけの意味を見つけた。
それが、量子乱数宗教のすべてだったのかもしれない」
9:54その日を境に、聖乱数器は沈黙した。
9:55部品が限界を迎え、二度と起動することはなかった。
9:56だが、人々の中に宿った「重ね合わせの信仰」は、
9:57静かに、しかし確かに、次の世代へと受け継がれていく。
終書 デコヒーレンス以後

10:1ハルがこの世界から去ってから、さらに多くの時間が流れた。
10:2都市Qは変わり、観測室も形を変えた。
10:3聖乱数器の代わりに、最新式の量子チップが並ぶようになった。
10:4だが、ユナは決して「ハルの教え」をそのまま教義として固定しなかった。
10:5彼女はこう言う。
10:6「師匠が一番怖れていたのは、
量子乱数宗教が、決まった形になってしまうことだった。
世界が揺らいでいるのに、わたしたちだけが止まっていたら、それこそ嘘になる」
10:7だから、教団には「最新版」が常に存在した。
10:8毎年、教義は議論され、改訂され、部分的に破棄された。
10:9ハルの残した言葉でさえ、「時代に合わない」と判断されれば、
10:10容赦なく脚注に追いやられることもあった。
10:11外部の人間はそれを見て、「信仰心が足りない」と嘲った。
10:12だが、内部の者たちは理解していた。
10:13――揺らぎ続けることこそが、この宗教の信仰心の証なのだと。
10:14あるとき、一人の子どもがユナに尋ねた。
10:15「ねえ。世界は本当に、決まってないの?」
10:16ユナは少し考えてから答えた。
10:17「わからないよ」
10:18「じゃあ、なんで乱数を大事にするの?」
10:19「世界が決まっていても、決まっていなくても、
**『決まっていないかもしれない』と思えることが、わたしたちには必要だから」
10:20子どもは首をかしげる。
10:21「決まっていないかもしれないって思えると、どうなるの?」
10:22ユナは微笑んだ。
10:23「誰かの過去を、決めつけなくなる。
『あの人はこういう人間だ』って、簡単にラベルを貼らなくなる。
10:24失敗しても、『これで終わり』だと思わなくなる。
いつだって、別の枝がありうると信じられるから。
10:25それから……」
10:26彼女は窓の外の街を見つめた。
10:27「自分を許したり、誰かを許したりしやすくなる。
『あのとき、ああするしかなかった』じゃなくて、
『あのとき、そう選んじゃった』って言えるようになるから」
10:28子どもはしばらく考え、やがて笑った。
10:29「じゃあ、量子乱数宗教って、
自分と他人を、ちょっと優しく見るための宗教なんだね」
10:30ユナは目を丸くし、それから嬉しそうにうなずいた。
10:31「うん。
きっと師匠が聞いたら、『その定義でいいね』って言うと思う」
10:32夜になり、観測室は静まり返る。
10:33古びた金庫の中で眠る、動かなくなった聖乱数器。
10:34誰も起動しないその箱は、もう数字を示すことはない。
10:35だが、その沈黙さえも、ひとつの「乱数結果」として、
10:36人々の心のどこかで意味づけられている。
10:37物語は語り終えられた。
10:38しかし、可能性の波は消えない。
10:39きみがこの物語を読み終えた瞬間にも、
10:40別の世界線では、ハルたちがまったく違う選択をしているかもしれない。
10:41それを確かめる方法は、どこにもない。
10:42だからこそ、きみのいるこの世界で、きみがどんな選択をするのかが、大切になる。
10:43最後に、この物語の外側にいる「きみ」に向けて、
10:44ひとつだけ、小さな教義を贈ろう。第零条:
きみは、決まっていたかもしれないし、
決まっていなかったかもしれない世界の中で、
それでも、自分の一歩を選び続けてよい。
10:45それが、量子乱数宗教の、
10:46そしてこの「聖書のような物語」の、最後の一節である。